2006年06月30日

Turk Talk

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「地獄へようこそ 5-0」

2005年11月16日。
イスタンブール、アタトュルク空港に到着したスイス代表を出迎えたのは鬼気迫る形相で野次をぶつけるトルコサポーター、そしてこの横断幕だった。
翌年に控えたドイツW杯へのヨーロッパ最後の切符を賭けたプレーオフ。
既にホーム&アウェイの一戦目、ホームのスイスはベルンでトルコを2-0で破っていた。
全ての集大成、イスタンブールでの第二戦――

トルコホームで行われる国際試合はヨーロッパで最も恐ろしいと言われる。
元来トルコは国内リーグでも1部はおろか2部3部までもが異常なまでの熱狂を見せる。
通常アウェイのサポーターは金網や壁で仕切られた一区画に押し込められ、周りを警官が囲む。
敵のコーナーキックの際にはありとあらゆる物が投げられる可能性があるため、入口でのセキュリティチェックはとても厳しい。

「地獄へようこそ」

これは国内リーグ3強のひとつ、ガラタサライのホームゲームの際によく相手への"歓迎"に使われる文句。

「5-0」

こちらは同じく3強のフェネルバフチェがよく使う。
数字はスコアのこと。
要するに彼らの希望小売価格。


まさに地獄。
さすがに普段は沈黙が守られるアウェイチームの国歌斉唱時に大ブーイングが起きた。
しかしこれは報復だった。
ベルンで逆に言われもなくトルコはこの屈辱を受けていたためだった。

物々しい雰囲気で始まった試合はやはり激戦。
逆転に次ぐ逆転。
だが結局4-2でトルコは勝利するもアウェイゴールの差で切符はスイスへ。
そして試合終了後事件が起きる。
激高したトルコの選手がスイスの選手を襲ったらしい。
というのもこれに関して事実は明らかになっていない。
ただ唯一ほんの一瞬のVTR(元浦和・アルパイがスイスの選手をしばいている)が存在するだけで、真相はロッカールームへの地下通路の闇の中である。
結局スイス人会長プラッターはトルコ代表にのみ厳罰を処した。

同じような事件が以前にも存在する。
'00年のUEFA杯準決勝、ガラタサライ―リーズ。
試合中リーズサポーターがトルコの新月旗を侮辱する行為を取った。
後日イスタンブールの繁華街で2名が刺殺された。

彼らにとって国歌や国旗への侮辱は絶対であり、冒涜は許されない。

キレやすい人たちなのは間違いない。


だが、アツい人たちなのも間違いないようだ。

'02年のW杯日韓大会3位決定戦を観た人はいるだろうか?
凄まじい勢いで勝ち進んできた地元韓国と、日本を破り快進撃を続けたトルコ。
試合は激戦の末トルコが勝利するが、その試合後の光景は素晴らしかった。
私が今まで見てきた中でベストの試合と言ってもいい理由はそこにある。

試合は実に激しかった。
しかし彼らにとってのW杯が終わった瞬間。
選手はお互いのユニフォームを着て肩を組んで場内を回る。
観客もそれに応え、韓国サポーターが新月旗を振りトルコサポーターはテグ旗にキスをした。
言葉が不要になった瞬間。
(が、日本の某民放はまためんどくさいことを言って早々に中継終了した記憶が・・)


さらに。
エルトゥール号事件をご存知だろうか?



1890年(明治23年)9月16日、トルコ皇帝ハミル2世が日本に派遣した特使一行を乗せたエルトゥール号が帰路暴風雨に遭い、和歌山県串本町沖合で岩礁に衝突し遭難するという事故が起きた。
この事故で特使を含む518名は死亡したが、死を免れた69名は地元民の手厚い救護により一命を取り留めた。
この時村人たちは、台風により漁ができなく、自分たちの食べるものさえ無くなってしまうという状況にあったにもかかわらず、非常時のために最後まで残していたにわとりまでもトルコ人に食べさせ介護したのだった。
また彼らは遭難者の遺体を引き上げ、丁重に葬った。
この話は和歌山県知事から明治天皇に伝えられた。
その後遭難者たちは明治天皇の命により軍艦2隻でトルコに送り届けられた・・・




そして。
時代は下ってイラン・イラク戦争が始まった1985年3月17日、フセインが「今から40時間後に、イラクの上空を飛ぶ飛行機は全て打ち落とす」ということを世界に向かって発信した時。
イランに住んでいた日本人慌ててテヘラン空港に向かったが、どの飛行機も満席で乗ることができなかった。
世界各国は自国民の救出をするために救援機を出したが、日本政府はすばやい決定ができなかった。
空港にいた日本人は、パニックに陥った。
そこに1機のトルコ航空の飛行機が到着した。
飛行機は日本人216名全員を乗せて成田に向かって飛び立った。
タイムリミットの1時間15分前であった。

なぜトルコ航空機が来てくれたのか日本政府もマスコミも知らなかった。
この時、元駐日トルコ大使のネジアティ・ウトカンは次のように語った。


「エルトゥール号の事故に際して、日本人がなしてくださった献身的な救助活動を今もトルコの人たちは忘れていません。
私も小学生の頃歴史教科書で学びました。
トルコでは子どもたちでさえエルトゥール号の事を知っています。
今の日本人が知らないだけです。
それでテヘランで困っている日本人を助けようとトルコ航空機は飛んだのです。」




我々日本人も100年前の恩があればそれを返せるだろうか?
posted by ISHIZUCHI at 02:47| Comment(0) | TrackBack(0) | スポーツ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年06月18日

2/6

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ドイツW杯死のC組、アルゼンチン、コートジボワール、セルビア・モンテネグロ、オランダ。
このグループに今回私が日本の次に応援しているチームがある。

遡ること12年、今から3つ前のアメリカW杯の話。
当時最強の戦力を有しながらも大会への参加権を剥奪された国がある。

ユーゴスラヴィア。
80年代後半からユーゴスラヴィア代表は監督イビツァ・オシム(現ジェフ千葉監督)のもと、ストイコビッチ、サビチェビッチ、ミヤトビッチ、ミハイロビッチ、ボクシッチ、ボバン、スーケル、プロシネツキ、ザホビッチらのタレントを擁し、「東欧のブラジル」の名そのままの強豪国であった。
90年イタリア大会では準々決勝で一人少いながらも優勝候補であったマラドーナのアルゼンチンに120分間でドロー。
PKで敗退したものの92年のヨーロッパ選手権の優勝候補に押す者が後を絶たないほど強烈な印象を残していた。
しかしユーゴスラヴィアはヨーロッパ選手権はおろかアメリカ大会にも出場できなかった。

戦争がこの国のすべてを引き裂いた。

東欧のコスモポリタン国家は次第に民族主義的様相を強めていく。
結果ユーゴスラヴィアは世界地図から消え、セルビア、モンテネグロ、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、スロベニア、マケドニアという6つの国に分断された。
もちろん代表チームも。

それでも98年フランス大会ではボバン、スーケルらのクロアチアが3位に入り、更にこれまでサッカーが盛んとは言えなかった小国であるサホビッチ率いるスロベニアも2000年のヨーロッパ選手権本大会、02年日韓大会と続けて本大会に出場した。

だが、ユーゴスラヴィアの戦績を引き継ぐセルビア・モンテネグロが今大会アルゼンチン戦で0-6というスコアで敗れ、大会を去ることが決定した。
私はここにユーゴスラヴィアの最後の破片が砕け散ってしまったのを見た。

今大会開会直前にセルビアからの独立が決定したモンテネグロは次回W杯予選からはひとつのチームとして扱われる。
かつてのサッカー大国はこれから6つの国、6つの代表チームで戦うこととなる。
posted by ISHIZUCHI at 13:43| Comment(0) | TrackBack(0) | スポーツ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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